ラグビーワールドカップ1991 England大会 予選プールB組
1991年10月9日水曜日
Dublin Lansdowne Road Stadium 収容客数48,000人(テレビ観戦)
32 - 16 Ireland勝利
Japanが世界に近づく
1987年に始まったワールドカップに、全大会出場してきたJapan。2015年大会の初戦でSPRINGBOKSに勝つまで、1勝(21敗2分け)しかしていなかった。その唯一の勝利を手にしたのが、この1991年大会のZimbabwe戦。Ireland戦は、その前の試合で、3戦あったプールマッチの2試合目だった。
世界ランキングなど存在しなかった時代。トライは4点。ラグビーがプロ化された1995年より前の試合だったから、相手もJapanも全員がアマチュアという牧歌的な時代ではあった。
しかし、世界の伝統国がJapanとの試合に目を吊り上げて臨むことがほとんどなかった時代だったから、ワールドカップは、日本が世界の列強と真剣勝負を戦える貴重な機会。そんな時代にこの試合は、Japanラグビーが世界に近づいていることを感じさせるものだった。
Irelandの苦戦
Irelandは、1月から3月におこなわれた伝統のFive Nations(欧州5カ国対抗戦)でWalesと並んでの最下位(Walesと引き分けただけで勝利なしの4位)。ワールドカップへの準備試合として実行したNamibia遠征でも2敗するなど、パッとしないまま大舞台を迎えていた。さらに、プールマッチの3試合を1週間のうちに戦う過密日程だったため、初戦のZimbabwe戦から先発を8人入れ替え、次戦のScotland戦に備えていた。そんな状態のグリーンのジャージではあったが、準々決勝ではこの大会で優勝したWallabiesを最後の最後まで苦しめる(18-19)ビッグ・パフォーマンスをみせる潜在能力を秘めていた。Japan戦で10番を背負ったラルフ・キーズは大会の得点王となる活躍だった。
会場を沸かせたJapanのトライ
Japan戦でもIrelandは、華麗に攻め勝ったわけではない。Japanのミスなど、わずかな好機を集中力でものにして勝利を手にした。トライ数はJapanが3つでIrelandが4つ。当時のテレビ中継時に解説を務めていた日比野弘さんは、「内容はスコア以上に競っていたので、本当に残念だった」と試合後にコメントを残している。
Japanボールのラインアウトからこぼれた球をいっきにトライに結びつける。ゴール前スクラムからNo.8ノエル・マニオンがサイドアタックし、そのままインゴールに入った。前半インジュアリータイムには、スクラムのターンオーバーからBKで攻め切った。そして、後半は効果的に3PGを重ねて勝負を決めた。
一方でJapanのトライは、すべて、観る人を喜ばせるものだった。
前半34分のトライは、ドロップアウト後の相手リスタートキックを受けたところから始まった。SH堀越正己のパスを受けたSO松尾勝博が判断よく縦に出て逆目へ走り、それをFWがサポート。この試合ではFLに入っていたエケロマ・ルアイウヒ、LO大八木淳史、林敏之とボールは渡り、林がインゴールに入った。まるで、早回しの映像を見ているような感覚のスピード感だ。
後半の2トライにもJapanラグビーのエッセンスが詰まっている。18分のトライは、自陣22メートルライン付近で得たPK機に速攻。SH堀越、SO松尾と渡ったボールはWTB吉田義人へ。左に広いスペースがあるのを見た吉田は、鋭いスワーブでトイメンのWTBジャック・クラークの体勢を崩し、ハンドオフで地面に落とす。そのまま快足を飛ばしてタッチライン際を駆け上がり、サポートの松尾、FL梶原宏之とつないでトライラインを越えた。このトライについては、大会ベストトライに推す人もいた。
勝負は決していたが、後半37分のトライもJapanらしかった。敵陣ゴール前のスクラムでダイレクトフッキング。相手の反応が遅れたところに仕掛け、No.8シナリ・ラトゥ、SH堀越で「左ハチキュー(8→9)」で崩した。WTB吉田が楽々とトライを挙げ、自分たちのアタックが通用すると証明してみせた。
1989年の宿澤監督就任以来、それぞれのポジションのスペシャリストを探し出し、自分たちのスタイルを突き詰め、相手を分析して戦うサイクルを繰り返してこの大会を迎えた。その到達点が勝利として残ったのは、この大会の最多得点試合となるZimbabwe戦(52-8)だけだったが、Ireland戦でJapanが輝いた時間は、ラストゲームの爆発を予想させるものだった。
林、大八木の強い当たり。堀越の高速のボールさばき。そして、吉田のワールドクラスの走り。何度でも言うが、Japanのアタックは、本当に早回しの映像のようでおもしろい。