ラグビーワールドカップ1999 Wales大会 予選プールD組最終戦

1999年10月16日土曜日

Cardiff Millennium Stadium 収容客数80,000人(テレビ観戦)

33 - 12 LOS PUMAS勝利

初勝利なるか

JapanはここまでSamoaに 9-43 で、Walesに 15-64 で敗れて2戦2敗。1999年W杯から20チーム参加となり、大会レギュレーションが複雑化。Japanもこの試合で91点を取って勝利すれば予選プールでの3位チーム中で最高成績となり、準々決勝進出を懸けたプレーオフに進むことが出来る。LOS PUMASには1998年9月15日に秩父宮で対戦し 44-29 と勝利を収めている。プレーオフ進出は厳しいが、何とか初勝利を挙げて欲しい。

好調LOS PUMAS

LOS PUMASは初戦のWalesには 18-23 と惜敗したが、Samoaには 32-16 と逆転勝利し、ここまで1勝1敗。41点以上を取って勝てば予選プールD組2位となるが、40点以下で勝っても予選プール3位中最高成績となり、プレーオフ進出となる。チームの中心はSOゴンサロ・ケサダ。ここまでの2試合でチーム総得点50点中45点がこのケサダのキックから生まれている。SHのアグティン・ピチョットの軽快な球捌きと鋭いサイドアタックにも注目が集まる。

高かった世界の壁

Japanは一度もリードできず、苦しい展開だった。9分、LOS PUMASのSOゴンサロ・ケサダにPGで先制され、その後互いにPGの応酬となったが、前半27分にSHアグティン・ピチョットの初トライでリードを広げられ、前半は8点差で折り返した。

 後半開始後、Japanは疲れのみえたFW第1列を入れ替えて、相手の強力FWに対抗。しかし、一進一退が続いて差は縮まらず、終了間際に2個目のトライを奪われ、力尽きた。攻め込んでのラインアウトのミスも痛かった。

日本はSO廣瀬佳司のPGで食い下がったが、今大会2度目のノートライだった。過去3大会は全ての試合でトライを挙げてきた日本だったが、3試合で僅か2トライと、力を出せずに大会を終えた。

1999年、英ウェールズを主会場とした第4回ワールドカップ(W杯)は、95年に国際ラグビーボード(現ワールドラグビー)がプロを容認してから初めて迎えた世界王者決定戦だ。

Japanは「切り札」の平尾誠二が監督を務め、元ALL BLACKSジェイミー・ジョセフグレアム・バショップJapan入り。99年5~7月、環太平洋6カ国によるパシフィックリム選手権で優勝し、「史上最強Japan」の呼び声もあった。

だが、外国出身者初のJapan主将に指名されたCTBアンドリュー・マコーミックの感覚は違った。同選手権が終わってからW杯まで、本格的な代表の活動期間は短かった。「パシフィックリムがピークだった。その後は一緒に過ごす時間が少なかったから、伸びなかったのだと思う。『時間がない、どうしよう』と焦っていた」と振り返る。

W杯初戦。5月に同選手権で下したSamoaに完敗した。「その時から、(Samoaの力が)50%は伸びていた」。地元Walesとの試合では、7万人超の大観衆が相手を後押しするという経験したことのない雰囲気にのまれた。近くにいる仲間の声も聞こえず、「相手の防御を突破しても、味方がどこにいるかも分からなかった」という。

W杯初出場のWTB大畑大介は、世界との距離を肌で感じた。Samoa戦では相手の気迫に押され、「全くだめだった」。Wales戦では1トライを奪ったものの、「自分はまだ伸びていく段階だと思っていたし、全然通用しなかった。W杯を経験したことで、大きく変わった」と、自らの成長につなげたという。

日本ラグビー界としては、95年の前回大会ALL BLACKSに 17-145 という歴史的大敗を喫し、地に落ちた誇りを取り戻すことが至上命令だった。戦術、戦略を練り込み、対戦相手の分析に力を注ぐなど、過去に例を見ないほどの強化に取り組んだ。

だが、プロ化が進んだ「世界」は、Japanのはるか先を行っていた。「最大限の努力はしたけど、今、思えばチームとして経験が足りなかった」と大畑は言う。この大会をきっかけに、アマチュア主義を貫いてきたJapanもプロ容認を検討し、翌年にオープン化を決めた。

投稿者

ラグビー好きの食いしん坊

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